カテゴリー: 教育について

中学受験の意味 3/1中国新聞「エール」より

広島都市圏の中学入試は松も明けぬうちから始まる。多くの受験生が第1志望とする「本命」の試験が集中する1月末まで、約3週間にわたる長期戦だ。

受験生はこの間、複数の学校を受験。まずは本番というものを知り、試験慣れしながら経験値を上げていく。ただ併願校とはいえ、その結果はメンタルに大きな影響を与え、プラスにもマイナスにも作用する。

Tくんの受験初日。前日から、はた目にも緊張が伝わり心配していたが、何とかA中学に合格。自信につながると思ったが、これが悪い方向に作用する。そう、初めて合格を手にし、浮かれてしまったのだ。その日から明らかに気が緩み、丁寧に学ぶ態度が消えた。彼は試験をなめた。

2校目のB中学は、すっかり緊張感をなくしたまま受けて不合格。両校とも第1志望ではないのに、合格と不合格という結果の間で彼の心は大きく揺れた。

このまま本命入試を迎えさせるわけにはいかない。T君を呼んで話をした。「なぜB中学は不合格だったんだろう」と問い掛けると、「ボク…真剣じゃなかった気がする…」。感心した。ちゃんと分かっている。「そうだな、君が不合格になるはずがない。心の隙を突かれた結果なんだろう。いいか、もう悔いは残すな」と背中を押した。

それからの2週間、彼は悔しさをバネに努力を重ねた。第2志望のC中学、第1志望のD中学の入試は目前に迫っていた。自分に「克つ」ことの大切さを知り、寸陰を惜しんで必死に闘う姿を見ていると、なぜか胸が熱くなった。

T君はC、D中学とも合格し、第1志望校への進学を決めた。彼は言う。「B中学の不合格がつらかったけど良かった気がする。だって、あれからスイッチが入ったから」。3勝1敗という数字に意味はない。B中学の1敗の痛みにこそ、成長につながる意味があったのだ。今日から3月。受験本番へ向けた新たな1年がもう始まっている。

「承認の言葉」~課題修正の勇気与える

子どものやる気を奪うNGワードをご存じだろうか? 「何回言えば分かるの」、「前もそうだったでしょ」、「いいかげんにしなさい」、「もう知らないわよ」、「お父さんに言うからね」等々。その無神経で感情的な一言でいともたやすく子どもは傷つく。「えっ? それくらいで?」と思う人はすでに“重症”。さらにエスカレートする可能性もあるので要注意。

小学六年生の「国語王」と、誰もが認めるA君は漢字テスト満点合格の常連である。そのA君が先日のテストで半分の5点しか取れなかった。うつむいたままの彼が気になって、話を聞いてみた。

A君は前回のテストで算数の出来が悪く、お母さんから「いくら国語ができても意味はないでしょ。算数ができないと受からないのよ」と怒られたと言う。彼自身、国語に比べて算数が今イチでなんとかしないといけないと思ってはいたものの、絶対の自信を持っていた国語を「無意味」と完全否定されたことがとてもショックだった。一生懸命頑張っても意味がないならやるだけ無駄と、気持ちが萎えてしまうのも当然だろう。その結果の「5点」だった。

「テストの結果を見てカーッとなってつい」と言うお母さんもまさかわが子が自分の言葉でそこまで傷ついているとは思ってもいなかったらしく反省しきりだった。
子どもは親が思っているほど打たれ強くはない。否定の言葉にはことのほか弱く、私の長い塾教師生活の中でも、否定され続けて伸びた子は一人もいない。

子どもを伸ばすのは承認の言葉である。認められれば元気になる。その元気が修正すべき課題に取り組む勇気をくれる。そんなこと百も承知のはずなのに承認できないのは、親が期待のあまり、わが子の欠点ばかりに気を奪われてしまうからにほかならない。

「何言ってんだ、お前の国語ってマジですごいんだぞ」と言ってやったときのA君の顔は、きっと皆さんにも想像できるだろう。その少し照れた笑顔こそ承認の効果なのだ。

「カタコトの日本語」~単語でなく文で会話を

こういう仕事をしていると、昨今の問題視されている子どもたちの国語力の貧困さは手に取るように分かる。

「情けは人のためにならず」や「的を得る」といったことわざや慣用句の誤用(分かりますよね?)、「見れる」「来れる」などのら抜き言葉の乱用は彼らの十八番。とはいえ、これらを知識としてたたき込むだけならそれほど難しいことではない。ただ、表現力だけは一朝一夕でなんとかなるものではない。

「兄の一番の願いが母をふるさとに連れて行き、思い出のつまった鎮守の森を見せたいから」。読者にはこの記述解答のいびつさは一目瞭然だろう。主語と述語がつながっていない、いわゆる「ねじれ文」なのだ。「あなたの好物はケーキを食べますか?」ではなく「あなたの好物はケーキですか?」となるように、主語と述語が対応していなければ文意は正しく相手に伝わらない。具体的なデータがあるわけではないが、この「ねじれ文」、間違いなく「ら抜き言葉」並みにまん延している。これは俗に言う「単語会話」の弊害だと思われる。

「先生、トイレ」には「おれはトイレじゃない!」と返す。幼稚園児じゃあるまいし、“立派な”小学生ならちゃんと主語と述語の整った“文”で、「先生、トイレに行ってもいいですか」と表現しないといけない。

だが、このカタコトの「単語会話」で意思が通じてしまうのが現代社会。問題の根っこはここにある。大人が子どもの稚拙な表現をただすことなく、何を言いたいのか察してくみ取ってやるから、子どもたちは一向に改めようとしない。生まれつき表現力の優れた子どもはいない。大人が「何が」「だれが」「いつ」「どこで」「どうする」という質問で補ってやりながら、徐々に適切な表現を身につけていくものなのだ。

かわいい子どもに情けは無用。そう考えれば、「情けは人のためにならず」もあながち誤用とばかりは言いきれない。

勉強への父助言 ~ 押しつけ禁物 焦らずに

「父親の出る幕なんてないんですかね?」と暗い顔をして話すのは小6のF君のお父さん。

いよいよ受験学年。だが、成績は低迷中。そこで「あと1年」を機に、わが子の勉強法を分析してみた。すると、問題点がいくつも出てきた。コレがいかん、アレが悪い、こうしてみろと忠告すると、「わかったから、ほっといてっ!」と子どもにそっぽを向かれてしまった。その上、奥さんにまで「よけいなことしないで」と非難され、へこんでしまったという。

実は、母子二人三脚で進めている受験勉強に、父親が加わると、こうした摩擦が起こりやすい。

摩擦の原因は明らかだ。親子関係には文脈がある。これまで母親と子どもの間で作ってきた親子関係は良くも悪くも「できあがって」いる。そこに父親が文脈を無視し、別の基準を持ち込んでくれば当然「きしむ」。慣れ親しんだ親子関係が不協和音を奏でる。

父親がわが子の教育にかかわることに何の問題もあろうはずがない。ただ、母子の関係と自分の役割を無視して飛び込むのは危険だ。

伸び悩む成績を前に母子が何もしていないはずがない。きびしいバトルが何度となくあったろうし、計り知れないほどの悔し涙も流されているにちがいない。

その背景を知らないまま、口出ししても的外れなアドバイスになりかねない。いくら理屈が通っていても、一方的に押しつけては当然はねつけられる。わかっていてもできないわが子の気持ちを察してやり、父親は敵ではなく味方であることを示してやらなければ、子どもは聞く耳を持とうとはしない。

要するに、ちょっとした気遣い、心配りのできる余裕を持って子どもにかかわればいいのだ。だが、子どもと接する時間の限られた父親の場合、そのわずかな時間で一気に解決をはかろうとするために、失敗してしまいがちなのだ。

焦りは禁物。たとえ子ども相手であっても、良好な関係を築くのに「即席」は利かない。

親の役目 ~ たたかう子どもを見守ろう

「私はわが子に纏足(てんそく)をしているのではないでしょうか」この言葉を聞いたとき、親業とはいかに悩み多きものであるかをあらためて実感させられた。

纏足とは、幼児期から足を布で縛り、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習である。無理やり指を内側に曲げて縛り、歩行の自由を奪うこの奇習は、強制・拘束・制限の象徴と言ってよい。

「わが子に良かれと思ってやっていることも、実は纏足をするように無理を強い、苦痛を与えるだけの独りよがりな愛情なのではないか」。そう思い悩むお母さんの心の中は痛いほどわかる。

中学を受験させることが正しい選択であったのかどうか、途中何度も自問する親は少なくない。友達が元気に遊んでいるのを横目に見ながら塾へ行かせるとき、見たいテレビやしたいゲームを我慢させて机に向かわせているとき、成績が低迷して頭にきてひどく怒ってしまったとき、親は自分の選択に自信が持てなくなるようだ。

だけど心配ご無用。子どもはこの程度の選択でどうこうなってしまうほどヤワな生き物じゃない。挑戦や試練は子どもが成長していくために必要不可欠な要素。つまずいたり、ぶつかったり、すっころんだりして、痛い目に遭いながら、また立ち向かっていくことを繰り返すことで強くなっていく。勉強だけが特別なのではない。スポーツも音楽も芸術も本気でやれば好きだけじゃあやっていられない。つらいことは山ほどある。

親の役目はたたかう彼らをほったらかしにせず、見守って、いざというときに支えてやること、それさえしっかりしていればOKだと思う。

ただ、この選択の可否が合格と不合格という結果でのみはかられると考えるのなら、子どもにとってつらいばかり苦しいだけの纏足になる可能性はある。纏足にするかしないか、要は親の考え方ひとつなのかもしれない。

待てない現代人 ~ 教育、子育て あせらず

「現代人は待てなくなった」と言われる。高速交通網の整備や携帯電話の登場が人から待つ時間を奪った結果、待つという行為自体が困難になったという。こうした現代社会の在り方が背景にあるらしいが、待てない風潮は教育や子育ての世界でも例外ではない。

1週間前に国語の読解力強化の相談を受けたばかりの小6受験生の父親から再度のご相談をいただいた。「先生に言われたように毎日問題を解かせてみたが何の効果も出ない。ウチの子には国語のセンスがないのではないか」と半ばあきらめ気味におっしゃる。まだ始めて1週間、そんなにすぐ結果は出ない。だが、その父親にとっては「まだ1週間」が「もう1週間」になってしまう。それを「センスがない」という一言で片付けられたら子どもの立つ瀬がない。

勉強における時間と結果の相関は、1時間勉強したから1時間分、1週間教えたから1週間分成績が良くなるという等価交換的なものではない。また、子どもは皆同じではなく、早生も晩生もいるはずなのだが、最近は短い時間で結果を求める親が増えてきた。

内田樹氏が『下流志向』で、「世の親たちにとって子どもは自分の製品であり、親の成果は製品にどんな付加価値をつけたかによる。だから目に見えるかたちで、数値化でき、定量的に評価できるかたちで成果を出すことにせかされ、プレッシャーを感じている」というようなことを指摘していたが、おそらく内田氏の見方は正しい。

だが、いくら親があせったところで、子育ては親の勝手で促成栽培の効く代物じゃない。「以下省略」みたいなごまかしはしないで、結果が出るまで愚直に積み上げるプロセスを大事にしたい。

プロの技を持った塾教師といえども魔法使いじゃない。結果を出すには、それなりに積み上げていく時間が要るのは変わりはしない。もしすぐにでもなんとかなりそうな気にさせられたらそれは幻想。甘い言葉にのって痛い目に遭わないようにご注意のほど。

過剰な親心 ~ つまずきは成長に不可欠

テスト一週間前のこと。「先生、今度のテストに向けてこれだけやっとけばいいって感じのプリントください。」と小学六年のA君。僕がけげんそうな顔をしていると、「母さんが先生に頼んでもらってこいって言うから」と言葉を続けた。

聞けば、「テストは準備が大切」と母親に言われ、どうテスト準備をするのが効果的かと親子で話し合ったという。ここまではえらい。ところがいくら額を合わせて考えても名案は思い浮かばず、先生ならオールインワンの「これだけプリント」みたいなものを持っているはず、という話になったらしい。

実は、テスト前になると「これだけプリント」を求めてくる生徒が少なくない。多くの場合、子どもの後ろに「きいてごらん」と子どもを後押しする親がいるようだ。子どもをできる限りサポートしてやりたいという熱心な親ではある。が、熱心が過ぎて、数字で見える結果ばかりが気になってしまう。

子どもが「良い点を取りたい」と思うのは良いことだし、親が「良い点を取らせてやりたい」と願う気持ちも分かる。だが、テストを受ける前に、「そっくりな問題」をやって高得点を得たところで、どれだけ意味があるのか。結果が良ければ自信になり、向学心も高まるという点は否定しないが、安易に点をとる術だけを身につけても正しい勉強法を体得したとは言えない。

どんなにできる子であっても「常勝」はない。どこかでつまずき痛い思いをしながら、次には失敗しない方法を考えようとするから、伸びていくのだと思う。

ところが、最近はそのつまずきを「ムダな労力」と考える親が増えていないか。無理なく無駄なく学ばせたいとの思いが高じて、成長に必要な負荷や経験まで省力化するのはマイナスでしかない。

「これだけやっとけば大丈夫」というような魔法の特効薬などあるはずがない。ないものねだりするのはよして、あえてわが子に一言言ってやってほしい。「手間を惜しむとあとで泣くぞ」と。