月別: 2020年9月

「カタコトの日本語」~単語でなく文で会話を

こういう仕事をしていると、昨今の問題視されている子どもたちの国語力の貧困さは手に取るように分かる。

「情けは人のためにならず」や「的を得る」といったことわざや慣用句の誤用(分かりますよね?)、「見れる」「来れる」などのら抜き言葉の乱用は彼らの十八番。とはいえ、これらを知識としてたたき込むだけならそれほど難しいことではない。ただ、表現力だけは一朝一夕でなんとかなるものではない。

「兄の一番の願いが母をふるさとに連れて行き、思い出のつまった鎮守の森を見せたいから」。読者にはこの記述解答のいびつさは一目瞭然だろう。主語と述語がつながっていない、いわゆる「ねじれ文」なのだ。「あなたの好物はケーキを食べますか?」ではなく「あなたの好物はケーキですか?」となるように、主語と述語が対応していなければ文意は正しく相手に伝わらない。具体的なデータがあるわけではないが、この「ねじれ文」、間違いなく「ら抜き言葉」並みにまん延している。これは俗に言う「単語会話」の弊害だと思われる。

「先生、トイレ」には「おれはトイレじゃない!」と返す。幼稚園児じゃあるまいし、“立派な”小学生ならちゃんと主語と述語の整った“文”で、「先生、トイレに行ってもいいですか」と表現しないといけない。

だが、このカタコトの「単語会話」で意思が通じてしまうのが現代社会。問題の根っこはここにある。大人が子どもの稚拙な表現をただすことなく、何を言いたいのか察してくみ取ってやるから、子どもたちは一向に改めようとしない。生まれつき表現力の優れた子どもはいない。大人が「何が」「だれが」「いつ」「どこで」「どうする」という質問で補ってやりながら、徐々に適切な表現を身につけていくものなのだ。

かわいい子どもに情けは無用。そう考えれば、「情けは人のためにならず」もあながち誤用とばかりは言いきれない。