カテゴリー: 子育てについて

中学受験という選択 3/28中国新聞「エール」より

新たな1年が始まった。目の前には「新」受験生が並んでいる。とはいえまだ5年生、明るく楽しくやっている。受験学年になったという認識はあるようだ。親に「もう受験生なんだから頑張るのよ」と言われるからだ。だが、この先の厳しい道のりを自覚し、わが身を奮い立たせるような子はまずいない。

むしろ、スイッチが入っているのは親の方だ。受験勉強の大変さを知っているから、志望校に受かってほしいから、心配でお尻をたたく。これから1年、これほど意識のギャップがある親子が、衝突を繰り返して受験ロードを進む。辟易して中学受験という選択に自信が持てなくなることもあるだろう。

受験生を教えていて一番楽しいのは、入試直前の1カ月間だ。もうすぐ入試が行われ、合否が出る。そんな審判の時を目前にした時期がなぜ好きなのか。それは子どもたちにとって受験がやっと自分のものになるからだ。

大人に言われ、渋々、嫌々、やっていた勉強が、なんとしても合格したいという熱を帯びて、主体的な学びに変わる。理解しようと前のめりに授業を聞く、問題が解けなくて唇をかむ、口に出して足りない知識を必死に覚える。これは受験が現実感を持って彼らに迫ってくるからだろう。

小学生という時期を考えると、中学受験を選択することで失われるものもあるのかもしれない。では、高い頂を目指す経験で得られるものはないのだろうか。私は、入試直前の子どもたちの姿にその答を見る。自らの意志で困難に立ち向かうことで人として成長するという側面もあるはずだ。

結果が良いに越したことはないが、結果だけが子どもを成長させるのではない。闘いの場に向かうまでの過程にも意味がある。その過程と結果を経験すれば、将来同様の場面で、必要な行動を選ぶ判断ができるようにならないか。

平たんな道をつまずくこともなく歩んでいては身に付かないものがある。負荷も必要だ。中学受験は子どもを成長させる坂道のようなものなのだ。

※今回で「エール」は終了です。

良い学校 2/21中国新聞「エール」より

国公立大学の2次試験が目前に迫る。大学入試も残りわずか。受験生諸君は力を尽くし、悔いなく戦ってほしい。

前期日程の合格発表は3月上旬。ほぼ時を同じくして、書店やコンビニには「東大・京大合格者ランキング」という文字の躍る週刊誌が並ぶようになる。最近はネットの専門サイトまである。今や3月の風物詩である。

発表後数日で関係各所に対して合格者を調査するローラー作戦は想像するだけで気が遠くなるが、それだけの労力を掛けてでも毎年特集が組まれるのは大学合格者ランキングの社会的関心が高いことの証しだ。

「東大や京大がすべてじゃない」というのは間違っていない。企業からの評価が高い大学は他にもあるし、医学部をはじめとする実学系の進路選択も増えている。ただ両大学が最難関であることは周知の事実であり、大学入試の象徴的存在と言っていい。難関に多数合格させる高校は俗に言う「えらい学校」であり、やじ馬的興味も刺激する。いつかわが子をその学校で学ばせたい、と思う保護者がいるのも当然だろう。

ランキング上位校は、高いレベルで切磋琢磨する俊英が集う進学力の高い学校であることは確かだろう。事実、誰もがどこかでその名を聞いたことのある有名校が並んでいる。だからと言って、東大や京大の合格者が少ない学校が「良くない学校」ということには決してならない。

中学受験で上位校の併願校とされる学校がある。偏差値なら40程度。東大や京大にはそれほど受からないが、難関私大や地元の国公立大には多数合格する。それらの大学の偏差値は60程度だから、中高6年間かけて、偏差値を20も伸ばしたということになる。こういう学校も「良い学校」ではないか。

子どもが大きく成長する時期は人それぞれ。中学受験時の1回こっきりの試験での学力が全てではない。入学後をどう過ごすかの方が大切だ。だからこそ、生徒一人一人のタイプに応じて「伸ばす学校」を評価する目も持っていたい。

激励会 12/6中国新聞「エール」より

受験生を対象に「激励会」を行っている。時機に応じて、受験勉強の改善とモチベーションの向上を目指す。秋気いよいよ深くなり、多くの受験生が第一志望とする学校の入試まであと3カ月を切った。ところが、いまだに気合の入っていない子も少なくなく、激励会は不可欠だった。

入試までのカレンダーを確認し、追い込み期にやるべきことを具体的に説明する。ところが、「いつもの話か」と思っているのか、反応は今イチだ。何も考えていないわけはない。「そろそろヤバい」という感覚はあり、焦りはするものの、何をどうしたら良いのかわからないのだ。

当然だ。彼らにとって受験は初めての体験なのだ。この時期の受験勉強のポイントを伝えるだけでは効果はうすい。行動につながる熱量を生み出さないと彼らは動かない。

そこで秘密兵器を用意した。彼らの多くが第1志望、第2志望とする学校の実際の入試風景の画像を見せたのだ。

受験生が集まる前の早朝まだ暗い試験会場の様子、掲示された合格者の番号(志願者数との差にも言及する)、1点、1問足らずに合格できなかった受験生に届いた補欠通知、そして定員に達して繰り上げを終了する通知。初めて見る入試の風景だ。最初はざわついていた子どもたちも徐々に真剣なまなざしに変わる。百聞は一見にしかずを地でいくような反応だ。受験が現実感を持って彼らに迫ってきたようだ。

激励会が終わってある子がやってきた。「センセ、国語伸ばすのどうしたらいいの?」。何としても受かりたいという気持ちに駆られたのだ。わが意を得たり。これが今回の激励会の目的だった。

今子どもは不安のただ中にいる。だが、大人はそんな子どもを叱り、勉強を強い、指示するだけだ。われわれは子どもの心に火をつけることを軽んじてはいないか。まずは、主人公の熱い気持ちを呼び起こしたい。子どもが本気になるアプローチがきっとあるはずだ。ぜひ親ならではの秘密兵器を探してほしい。

母の言葉 9/27中国新聞「エール」より

塾に来たMくんが浮かない顔をしている。いつもは元気すぎてお小言をもらうほどなのにどうしたのだろう。授業中も暗い顔で下を向いている。気になったので呼び出して話を聞いた。

「どうした。ずいぶん元気がないじゃないか」と聞いてみたが、反応はない。「何かあったか」と重ねて聞くと、ようやく重い口を開いた。「模擬試験が…」

先日、模擬試験の結果を返却した。Mくんは得意の算数で失敗していたのを思い出した。結果が良くなくて落ち込んでいたのか。えらい。真剣に結果を受け止めている。感心感心、と思いきや、そうじゃなかった。模擬試験の結果をお母さんにこっぴどく怒られたと言う。「こんなんじゃ合格は無理」「もう受験やめなさい」「塾も行かなくていい」とまで言われ、ショックを受けたようだ。

模擬試験では、得点や順位、偏差値、志望校判定など非情な数字がいくつも出てくる。この数字に親の心は大きく揺れる。良ければ安心するし、悪ければ不安になる。一喜一憂するなとは言われるが、なかなか感情を抑えきれない。

だが、その感情を生のままに子どもにぶつけるのはやめたほうがいい。大好きな母親から投げつけられた感情的な言葉は子どもの心をいとも簡単に傷つける。

やる気を起こさせるための𠮟咤のつもりかもしれないが、「合格できない」「受験も塾もやめさせる」という言葉を、子どもは額面通りに受け取ってしまう。

負の感情を言語化しないこと。どんなにはらわたが煮えくり返っていても、そこは我慢。そして言葉がけを変える。数字は冷静に確認するだけでいい。「どこがいけなかったのかな」と具体的な問題点、課題を明らかにする。その上で、「次のために何をどうしようか」と、改善に向けて具体的な行動を親子で話し合おう。

叱るのがいけないというのではない。12歳は大人にあれこれ注意されながら学んでいく。だが、論理的、理性的に叱るのと感情的に怒るのは全く違うということを理解してほしい。

教育のデジタル化 5/10中国新聞「エール」より

エヴァンゲリオンの世界の話だと思っていた「緊急事態宣言」、「ロックダウン」が現実になって1年がたつ。新型コロナウィルスのパンデミック(世界的大流行)は社会を大きく変えた。教育界も例外ではなく、想定外の学校休業を受け、学校も塾も緊急対応を余儀なくされた。

新時代教育の象徴として出番を待っていたICT(情報通信技術)は、子どもたちの学びを守る救世主として一気に時代の主役となった。対面指導、一斉授業ができない状況でも、指導を継続しなければならない。多くの学校や塾が、いや応なくタブレット学習、動画配信、リモート授業で対応した。当初は試行錯誤ではあったが、教師も懸命に取り組んだ。

その結果、旧態から抜け出し、新たな学習の形が成立したと言っていいだろう。タブレットを用いた学習コンテンツが駆使され、欠席してもリモート授業を受けることが日常になりつつある。まだ運用面において未成熟な部分はあるにせよ、教育のデジタル化が子どもたちの今後の学びの形を変えていくことは間違いない。

ではICTは学校や塾に取って代わるものなのか。否である。特に小学生の学習は、ある単元の考え方や解き方を学び、演習して身につければ、はい終わりとはいかないからだ。

人の振り見て我が振り直せの格言通り、集団の中で人から学ぶことは多い。隣の子の真剣な様子を見て、勉強する姿勢を学び、授業で周りの子の反応に刺激を受け、思いもしなかった発想に気付きをもらう。笑いや緊張もあれば、教師のしった激励もある。

子どもに最新のツールを与えさえすれば、よい教育環境を整えたことにならないと、親も理解してほしい。友人やライバル、教師と作るライブな空間が醸す空気の中で子どもは学び、成長する。GIGAスクール構想、ITC教育、大いに結構。学びの方法が高度化し、変化する教育改革を歓迎したい。ただそれはあくまでも教育ツール、メソッドだ。空間と空気の中にこそ学びがあるのは今も昔も変わらない。

中学受験の意味 3/1中国新聞「エール」より

広島都市圏の中学入試は松も明けぬうちから始まる。多くの受験生が第1志望とする「本命」の試験が集中する1月末まで、約3週間にわたる長期戦だ。

受験生はこの間、複数の学校を受験。まずは本番というものを知り、試験慣れしながら経験値を上げていく。ただ併願校とはいえ、その結果はメンタルに大きな影響を与え、プラスにもマイナスにも作用する。

Tくんの受験初日。前日から、はた目にも緊張が伝わり心配していたが、何とかA中学に合格。自信につながると思ったが、これが悪い方向に作用する。そう、初めて合格を手にし、浮かれてしまったのだ。その日から明らかに気が緩み、丁寧に学ぶ態度が消えた。彼は試験をなめた。

2校目のB中学は、すっかり緊張感をなくしたまま受けて不合格。両校とも第1志望ではないのに、合格と不合格という結果の間で彼の心は大きく揺れた。

このまま本命入試を迎えさせるわけにはいかない。T君を呼んで話をした。「なぜB中学は不合格だったんだろう」と問い掛けると、「ボク…真剣じゃなかった気がする…」。感心した。ちゃんと分かっている。「そうだな、君が不合格になるはずがない。心の隙を突かれた結果なんだろう。いいか、もう悔いは残すな」と背中を押した。

それからの2週間、彼は悔しさをバネに努力を重ねた。第2志望のC中学、第1志望のD中学の入試は目前に迫っていた。自分に「克つ」ことの大切さを知り、寸陰を惜しんで必死に闘う姿を見ていると、なぜか胸が熱くなった。

T君はC、D中学とも合格し、第1志望校への進学を決めた。彼は言う。「B中学の不合格がつらかったけど良かった気がする。だって、あれからスイッチが入ったから」。3勝1敗という数字に意味はない。B中学の1敗の痛みにこそ、成長につながる意味があったのだ。今日から3月。受験本番へ向けた新たな1年がもう始まっている。

「中学受験」~12歳 成長への通過儀礼

年明け早々、中学入試が開幕。とはいえ、この時期は前哨戦で、本命前の腕試しというケースが多い。ひとまず受験を体験し、実戦の勘を養おうというのだが、その割には前日から顔が引きつっている。

日頃、大人相手にどれだけ生意気な口をきこうとも、しょせんは12歳の子どもである。長い年月をかけて勉強してきた(全力投球したかどうかはおいといて)結果が問われる審判の場を前にして、心穏やかに、とはなかなかいかない。

なにしろ初体験である。あれやこれや親や塾の先生に忠告されても経験値がないため「実感」としてつかめない。ただ、「なんか、ヤバイ」という漠然とした危機感や焦燥感が日を追うごとに大きくなっていく。

これが二、三ヶ月前なら、「ま、いっか」で逃げていた彼らが、この時期にはもがき、あがく。体調が悪くても休まない。休憩時間も問題を解き、先生をつかまえてしつこく質問する。解けない問題を前に爪をかんで、ひざをゆする。時には出来の悪さに涙する。まさに寸陰を惜しみ、必死で戦う受験生の姿がそこにある。

こんな子どもたちをかわいそうと思う人もいるかもしれないが、僕はそんな子どもたちと出会うためにこの仕事をしていると言っても過言ではない。彼らの姿に成長のひとつの形を見るからだ。

痛みや苦しみを経験しなければ人は強くなれない。だが、現代は「純粋培養」され困難を経験しないまま大人になっていく子どもが増えている。受験は現代に残された数少ない通過儀礼のひとつではないか。受験を通して子どもたちは大きく成長していく。その成長は、受験=悪という図式だけにとらわれている人間には見えないものなのだろうと思う。

願わくば、努力と等価の結果を全員に与えてやりたいが、現実は必ずしもそうならない。いくら経験を積んでもこの非情さだけには慣れることはできない。

すべての受験生が悔いを残さず全力を尽くしてくれることを願ってやまない。

「承認の言葉」~課題修正の勇気与える

子どものやる気を奪うNGワードをご存じだろうか? 「何回言えば分かるの」、「前もそうだったでしょ」、「いいかげんにしなさい」、「もう知らないわよ」、「お父さんに言うからね」等々。その無神経で感情的な一言でいともたやすく子どもは傷つく。「えっ? それくらいで?」と思う人はすでに“重症”。さらにエスカレートする可能性もあるので要注意。

小学六年生の「国語王」と、誰もが認めるA君は漢字テスト満点合格の常連である。そのA君が先日のテストで半分の5点しか取れなかった。うつむいたままの彼が気になって、話を聞いてみた。

A君は前回のテストで算数の出来が悪く、お母さんから「いくら国語ができても意味はないでしょ。算数ができないと受からないのよ」と怒られたと言う。彼自身、国語に比べて算数が今イチでなんとかしないといけないと思ってはいたものの、絶対の自信を持っていた国語を「無意味」と完全否定されたことがとてもショックだった。一生懸命頑張っても意味がないならやるだけ無駄と、気持ちが萎えてしまうのも当然だろう。その結果の「5点」だった。

「テストの結果を見てカーッとなってつい」と言うお母さんもまさかわが子が自分の言葉でそこまで傷ついているとは思ってもいなかったらしく反省しきりだった。
子どもは親が思っているほど打たれ強くはない。否定の言葉にはことのほか弱く、私の長い塾教師生活の中でも、否定され続けて伸びた子は一人もいない。

子どもを伸ばすのは承認の言葉である。認められれば元気になる。その元気が修正すべき課題に取り組む勇気をくれる。そんなこと百も承知のはずなのに承認できないのは、親が期待のあまり、わが子の欠点ばかりに気を奪われてしまうからにほかならない。

「何言ってんだ、お前の国語ってマジですごいんだぞ」と言ってやったときのA君の顔は、きっと皆さんにも想像できるだろう。その少し照れた笑顔こそ承認の効果なのだ。

「カタコトの日本語」~単語でなく文で会話を

こういう仕事をしていると、昨今の問題視されている子どもたちの国語力の貧困さは手に取るように分かる。

「情けは人のためにならず」や「的を得る」といったことわざや慣用句の誤用(分かりますよね?)、「見れる」「来れる」などのら抜き言葉の乱用は彼らの十八番。とはいえ、これらを知識としてたたき込むだけならそれほど難しいことではない。ただ、表現力だけは一朝一夕でなんとかなるものではない。

「兄の一番の願いが母をふるさとに連れて行き、思い出のつまった鎮守の森を見せたいから」。読者にはこの記述解答のいびつさは一目瞭然だろう。主語と述語がつながっていない、いわゆる「ねじれ文」なのだ。「あなたの好物はケーキを食べますか?」ではなく「あなたの好物はケーキですか?」となるように、主語と述語が対応していなければ文意は正しく相手に伝わらない。具体的なデータがあるわけではないが、この「ねじれ文」、間違いなく「ら抜き言葉」並みにまん延している。これは俗に言う「単語会話」の弊害だと思われる。

「先生、トイレ」には「おれはトイレじゃない!」と返す。幼稚園児じゃあるまいし、“立派な”小学生ならちゃんと主語と述語の整った“文”で、「先生、トイレに行ってもいいですか」と表現しないといけない。

だが、このカタコトの「単語会話」で意思が通じてしまうのが現代社会。問題の根っこはここにある。大人が子どもの稚拙な表現をただすことなく、何を言いたいのか察してくみ取ってやるから、子どもたちは一向に改めようとしない。生まれつき表現力の優れた子どもはいない。大人が「何が」「だれが」「いつ」「どこで」「どうする」という質問で補ってやりながら、徐々に適切な表現を身につけていくものなのだ。

かわいい子どもに情けは無用。そう考えれば、「情けは人のためにならず」もあながち誤用とばかりは言いきれない。

勉強への父助言 ~ 押しつけ禁物 焦らずに

「父親の出る幕なんてないんですかね?」と暗い顔をして話すのは小6のF君のお父さん。

いよいよ受験学年。だが、成績は低迷中。そこで「あと1年」を機に、わが子の勉強法を分析してみた。すると、問題点がいくつも出てきた。コレがいかん、アレが悪い、こうしてみろと忠告すると、「わかったから、ほっといてっ!」と子どもにそっぽを向かれてしまった。その上、奥さんにまで「よけいなことしないで」と非難され、へこんでしまったという。

実は、母子二人三脚で進めている受験勉強に、父親が加わると、こうした摩擦が起こりやすい。

摩擦の原因は明らかだ。親子関係には文脈がある。これまで母親と子どもの間で作ってきた親子関係は良くも悪くも「できあがって」いる。そこに父親が文脈を無視し、別の基準を持ち込んでくれば当然「きしむ」。慣れ親しんだ親子関係が不協和音を奏でる。

父親がわが子の教育にかかわることに何の問題もあろうはずがない。ただ、母子の関係と自分の役割を無視して飛び込むのは危険だ。

伸び悩む成績を前に母子が何もしていないはずがない。きびしいバトルが何度となくあったろうし、計り知れないほどの悔し涙も流されているにちがいない。

その背景を知らないまま、口出ししても的外れなアドバイスになりかねない。いくら理屈が通っていても、一方的に押しつけては当然はねつけられる。わかっていてもできないわが子の気持ちを察してやり、父親は敵ではなく味方であることを示してやらなければ、子どもは聞く耳を持とうとはしない。

要するに、ちょっとした気遣い、心配りのできる余裕を持って子どもにかかわればいいのだ。だが、子どもと接する時間の限られた父親の場合、そのわずかな時間で一気に解決をはかろうとするために、失敗してしまいがちなのだ。

焦りは禁物。たとえ子ども相手であっても、良好な関係を築くのに「即席」は利かない。