親の役目 ~ たたかう子どもを見守ろう

「私はわが子に纏足(てんそく)をしているのではないでしょうか」この言葉を聞いたとき、親業とはいかに悩み多きものであるかをあらためて実感させられた。

纏足とは、幼児期から足を布で縛り、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習である。無理やり指を内側に曲げて縛り、歩行の自由を奪うこの奇習は、強制・拘束・制限の象徴と言ってよい。

「わが子に良かれと思ってやっていることも、実は纏足をするように無理を強い、苦痛を与えるだけの独りよがりな愛情なのではないか」。そう思い悩むお母さんの心の中は痛いほどわかる。

中学を受験させることが正しい選択であったのかどうか、途中何度も自問する親は少なくない。友達が元気に遊んでいるのを横目に見ながら塾へ行かせるとき、見たいテレビやしたいゲームを我慢させて机に向かわせているとき、成績が低迷して頭にきてひどく怒ってしまったとき、親は自分の選択に自信が持てなくなるようだ。

だけど心配ご無用。子どもはこの程度の選択でどうこうなってしまうほどヤワな生き物じゃない。挑戦や試練は子どもが成長していくために必要不可欠な要素。つまずいたり、ぶつかったり、すっころんだりして、痛い目に遭いながら、また立ち向かっていくことを繰り返すことで強くなっていく。勉強だけが特別なのではない。スポーツも音楽も芸術も本気でやれば好きだけじゃあやっていられない。つらいことは山ほどある。

親の役目はたたかう彼らをほったらかしにせず、見守って、いざというときに支えてやること、それさえしっかりしていればOKだと思う。

ただ、この選択の可否が合格と不合格という結果でのみはかられると考えるのなら、子どもにとってつらいばかり苦しいだけの纏足になる可能性はある。纏足にするかしないか、要は親の考え方ひとつなのかもしれない。

待てない現代人 ~ 教育、子育て あせらず

「現代人は待てなくなった」と言われる。高速交通網の整備や携帯電話の登場が人から待つ時間を奪った結果、待つという行為自体が困難になったという。こうした現代社会の在り方が背景にあるらしいが、待てない風潮は教育や子育ての世界でも例外ではない。

1週間前に国語の読解力強化の相談を受けたばかりの小6受験生の父親から再度のご相談をいただいた。「先生に言われたように毎日問題を解かせてみたが何の効果も出ない。ウチの子には国語のセンスがないのではないか」と半ばあきらめ気味におっしゃる。まだ始めて1週間、そんなにすぐ結果は出ない。だが、その父親にとっては「まだ1週間」が「もう1週間」になってしまう。それを「センスがない」という一言で片付けられたら子どもの立つ瀬がない。

勉強における時間と結果の相関は、1時間勉強したから1時間分、1週間教えたから1週間分成績が良くなるという等価交換的なものではない。また、子どもは皆同じではなく、早生も晩生もいるはずなのだが、最近は短い時間で結果を求める親が増えてきた。

内田樹氏が『下流志向』で、「世の親たちにとって子どもは自分の製品であり、親の成果は製品にどんな付加価値をつけたかによる。だから目に見えるかたちで、数値化でき、定量的に評価できるかたちで成果を出すことにせかされ、プレッシャーを感じている」というようなことを指摘していたが、おそらく内田氏の見方は正しい。

だが、いくら親があせったところで、子育ては親の勝手で促成栽培の効く代物じゃない。「以下省略」みたいなごまかしはしないで、結果が出るまで愚直に積み上げるプロセスを大事にしたい。

プロの技を持った塾教師といえども魔法使いじゃない。結果を出すには、それなりに積み上げていく時間が要るのは変わりはしない。もしすぐにでもなんとかなりそうな気にさせられたらそれは幻想。甘い言葉にのって痛い目に遭わないようにご注意のほど。

受験生 ~ 自分の弱い心と闘う

第1志望校の入試当日。試験会場で会ったA君の顔はややこわばっていた。無理もない。彼はこの学校に進学したくて長年勉強してきたのだ。

1時間目はA君の得意な国語。ところが思ったように解けない。その違和感は時間の経過と共に焦りへと変わっていった。結局、何が何だかわからないうちに1時間目の試験は終了。過去問演習でも一度もなかった大失敗。A君は一瞬「もうダメだ」と思ったと言う。

前日、生徒たちにこんな話をした。「1時間目の科目で大失敗をした。そんな時どう思う?」「へこむ」「やばい」「落ち込む」と口々に答える。「でもな、そこであきらめたらおしまいなんだよ。残る科目で全力を出し切るんだ。最後の1秒まで投げ出さないこと。悔いだけは残してくるな」そう言ってみんなを送り出した。

A君は休憩時間にそれを思い出した。悔しくて、情けなくて、もうやめたいけど、あきらめない!最後までやりきろう!と腹をくくった。

彼は全力を尽くすことだけ考えた。昼食は母親と二人で過ごしたが、「あと1教科。集中したいから」とだけ言って黙々とお弁当を食べて、教室へ戻っていった。

最後の教科算数が終了。A君はそのまま塾にやってきた。翌日、第2志望の受験が残っているので勉強したいと言う。彼の戦いはまだ終わっていない。

翌日、まだ試験を受けている最中に、第1志望校の合格発表。結果は合格。試験を終えてA君はすぐ報告にやってきた。

「国語で大失敗しけど、先生が言ったとおり、最後まであきらめなかった。あれが良かったんだね」そう言うA君の目は澄んでいた。

合格と不合格。受験にはその二つの結果しかない。だが、敵はライバルの受験生では決してない。自分に克つこと。逃げ出したくなったり、あきらめてしまいたくなったりする自分の弱い心と戦うことを学んで欲しい。そんな経験をさせることこそ大人の役目だと思う。

過剰な親心 ~ つまずきは成長に不可欠

テスト一週間前のこと。「先生、今度のテストに向けてこれだけやっとけばいいって感じのプリントください。」と小学六年のA君。僕がけげんそうな顔をしていると、「母さんが先生に頼んでもらってこいって言うから」と言葉を続けた。

聞けば、「テストは準備が大切」と母親に言われ、どうテスト準備をするのが効果的かと親子で話し合ったという。ここまではえらい。ところがいくら額を合わせて考えても名案は思い浮かばず、先生ならオールインワンの「これだけプリント」みたいなものを持っているはず、という話になったらしい。

実は、テスト前になると「これだけプリント」を求めてくる生徒が少なくない。多くの場合、子どもの後ろに「きいてごらん」と子どもを後押しする親がいるようだ。子どもをできる限りサポートしてやりたいという熱心な親ではある。が、熱心が過ぎて、数字で見える結果ばかりが気になってしまう。

子どもが「良い点を取りたい」と思うのは良いことだし、親が「良い点を取らせてやりたい」と願う気持ちも分かる。だが、テストを受ける前に、「そっくりな問題」をやって高得点を得たところで、どれだけ意味があるのか。結果が良ければ自信になり、向学心も高まるという点は否定しないが、安易に点をとる術だけを身につけても正しい勉強法を体得したとは言えない。

どんなにできる子であっても「常勝」はない。どこかでつまずき痛い思いをしながら、次には失敗しない方法を考えようとするから、伸びていくのだと思う。

ところが、最近はそのつまずきを「ムダな労力」と考える親が増えていないか。無理なく無駄なく学ばせたいとの思いが高じて、成長に必要な負荷や経験まで省力化するのはマイナスでしかない。

「これだけやっとけば大丈夫」というような魔法の特効薬などあるはずがない。ないものねだりするのはよして、あえてわが子に一言言ってやってほしい。「手間を惜しむとあとで泣くぞ」と。